法学部での学びの例
これも考えてみよう
憲法14条1項  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

(1) 「法の下の平等」とは、どのような状態を指すのでしょうか。

  1. 差をつけたら差別?
  2. 差別扱いは許される?

「等しく同じように扱うべき」とはいっても、男女の性差や家計の違いなど、人間には違いがあります。それを抜きにしてすべてを同じように扱うと、かえって問題となってしまうケースがあります。憲法が定める「法の下の平等」とは、「同じ立場にある場合には等しく扱う」、「状況が異なる場合にはそれに応じて対応すべき」ということを内容としています。 「機会の平等」と「結果の平等」、「形式的平等」と「実質的平等」などという考え方があります。このような考え方を元にして具体的な問題をどのように考えるかが、法学部での学びです。

(2) 憲法14条1項に定められている「社会的身分」とは、どういうものでしょうか。

さまざまな考え方がありますが、「生まれながらの地位で、自分の意思では変えられないもの」というのが一般的な理解です。具体的には、次の問題の「嫡出子・非嫡出子」や特定の地域の出身者であることなどが「社会的身分」に当たるとされています。このような抽象的な文言を具体化することが、法学部の学びにとって重要です。

(3) 非嫡出子(いわゆる婚外子)が嫡出子(婚内子)よりも相続の取り分(法定相続分)が2分の1しかないというのは、法の下の平等に反するでしょうか?

親子関係があっても、両親が法律上の夫婦でない時期に生まれた子は、法律上「非嫡出子」とされます。「法律上の夫婦」であるかどうかは、婚姻届を出すかどうかで決まりますので、子からすれば、自分が生まれたときの親の状況によって自分の法律上の地位が決まってしまうため、自分ではどうしようもできないものです。そのため、「嫡出子・非嫡出子」というのは上記(2)の「社会的身分」に当たるわけですが、その地位によって相続財産の取り分が変わってくるというのは問題だと考えられます。

最高裁判所はこの問題について、長い間、差別とはいえないという立場をとってきましたが、平成25年9月4日に、憲法14条1項が定める「法の下の平等に反する」とする判断を示しました。それに伴い、法律も改正されています。 法は人が作ったルールですから、「変えられないもの」ではなく、社会の状況に合わせて適宜「変わるもの」なのです。

(4) 同じ会社で同じ仕事をしているCさんとDさん(年齢・入社時期も同じ)。Cさんは独身、Dさんは結婚していて子どもが1人いる。2人とも同じ金額の給料をもらっているが、Cさんの方が税金(所得税)を多く払っているというのは、法の下の平等に反するでしょうか?

憲法14条1項の「法の下の平等」の基本的な考え方は、「同じ状況にある場合には同じように扱う」、「状況が違えばそれに応じて扱う」というものですので、まずは「状況が同じなのかどうか」を考える必要があります。ここではCさんとDさんの状況は同じといえるのでしょうか。

2人の働き方や同額の給料をもらっているという状況からすれば、2人の状況は同じということになり、それにかかる所得税の金額に差があるのは平等ではないことになります。

しかし、人間は働いて得た給料を糧にして生活をするため、所得税もそれぞれの生活状況を考慮する必要があります。そのような考慮をしなければ、国に税金を払ったために生活が苦しくなったという状況になってしまい、「生存権の保障」という別の憲法上の問題につながる可能性があります(憲法25条)。

上で示した2つの考え方は、どちらも間違いではなく、2人の状況の見方の違いです。その上で、より適切な判断をするためにさらに踏み込んだ検討をすることになります。ちなみに現在の法制度では、2人の所得税の額に差を設けても法の下の平等には反しないと考えられています。

 

法学部での学びの例
これも考えてみよう

(1) 地下鉄車内の優先席に大学生の若者が座っています。そこに高齢者が乗ってきました。優先席を譲ろうとしない大学生に対して、高齢者に優先席を譲るよう強制することはできるでしょうか。また、大学生が「優先席」であることを理由に高齢者に席を譲らない行為は、どのように考えたらよいでしょうか。

一般論として、大学生は高齢者に席を譲るべきでしょうが、優先席を譲るかどうかは個人のモラルの問題です。モラルは人の内面、つまり考え方や良心に関わる問題ですので、強制することはできません。そのため、法によって強制しないというのが一般的です。

しかし、「優先席を高齢者に譲らない場合には罰則を科す」という法をつくって強制することも可能です。ただし、このような問題について、法をつくって強制することが良いのかどうか、その必要があるのかどうかについて、法の規制対象となる私たちが納得するかどうか、ということが重要です。

(2) 人を殺した場合には、死刑または5年以上の懲役に処せられます(殺人罪・刑法199条)。自分の親を殺した場合には死刑または無期懲役に処するとする法律がかつてありました(旧刑法200条)。その結果、最も軽い刑罰として、親を殺した場合には無期懲役、子供を殺した場合には懲役5年になる可能性があります。このような刑罰の差をどのように考えたらよいでしょうか。

人の命は平等です。社会的に地位の高い人とそうでない人、富裕者と貧困者とで、命の重さに違いはありません。そうであれば、「人を殺す」という行為は、誰を殺したとしても同じように処罰されるべきでしょう。

一方、親や目上の人を敬うべきということも重要な価値観です。そのため、親を殺した場合には重い刑罰に処するということも理解できます。

しかし、親を殺すことと他人を殺すことは、刑罰の重さに違いを設けるほどの違いがあるのでしょうか。ましてや、親を殺したら無期懲役、子供を殺したら懲役5年という違いは合理的に説明できるのでしょうか。

最高裁判所はこのように考えて、旧刑法200条を憲法違反と判断し、現在ではこの規定は廃止されています。ただし、最高裁判所の判断がすべて正しいとは限りません。法とモラルの関係など、さまざまな観点からこの問題について考えてみることが重要です。

(3) Aさんが買い物に出かけようとしたところ、隣人であるBさんが子供を預かってくれるというので、その好意に甘えて子供を預けて出かけました。ところが、Bさんが目を離したすきに、Aさんの子供が池に落ちて死亡してしまいました。Aさんは、Bさんに対して、監督不行き届きを理由として訴訟を起こしました。Aさんの行為をどのように考えたらよいでしょうか?

Bさんには、Aさんの子供を預かった以上、事故が起きないように注意することが求められるのは当然です。そのため、事故が起きたことに対して責任を問われるのはやむを得ないでしょう。

一方、他人を軽率に信頼して子供を預けたAさんにも何らかの落ち度があるのではないか、とも考えられます。そのような見方に立って、好意で子供を預かってくれたBさんの責任を問うために訴訟(裁判)を起こすなんて身勝手だ、と考える人もいるかもしれません。

このような問題に、法はどのように答えるのでしょうか。Bさんが「お子さんを預かりましょう」と言い、Aさんが「では、お願いします」と言ったとすると、2人の間にはある種の契約が成立したと見ることができます。口約束にすぎないことや報酬の有無は関係ありません。そして、事故は、Bさんが契約上要求される注意を払わなかったために生じたのですから、Bさんは契約違反の責任を免れません。Aさんが軽率に子どもを預けたという点は、賠償額を減額させる「過失相殺」で考慮される事柄です。このように理解すれば、お隣さんの好意に甘えておいて裁判を起こすなんてAさんは身勝手だという主張は、モラルの問題に属すると考えることができます。

しかし、隣人同士の信頼関係に基づく問題を、法が定めるルールだけで解決してしまってよいのか、専門家の間でも意見が分かれるところです。ルールはルールとして尊重しつつも、人の内面に関わるモラルの問題も決して無視することはできません。

(4) 東京や名古屋では、エスカレーターの左側に立ち、右側は歩く人用に空けておくのが一般的です。これは「法」でしょうか?

地域によってこのような差がみられることって面白いですよね(これ以外にもいろいろな「地域ルール」がありますね)。このようなルールは、法律で決められていることではなく、人々が自然に生み出したもので「(社会)慣習」と呼ばれるものです。

慣習も、社会の中で人々が認識し、従っている以上、ルールの一つといえます。しかし、法律で定められているものではないため、それを破ったからといって制裁が科されたり強制されたりするものではありません。あくまでも人々が任意に従っているルールということになります。

しかし、このようなルールがあることによって社会の秩序が保たれているといえます。そのため、慣習などを含めた社会のルールは広く「法」と呼ばれています。「法律」は国が定めるルールですので、当然「法」に含まれます。さまざまなルール、つまり「法」を広く学ぶ学部、それが法学部です。